葛木城

別名 葛城城  付近住所 滋賀県甲賀市甲南町葛木  現在- 
2009/10/12 碑・案内板アリ


葛木丹後守  此の附近は我が国古代民族が自然の地形を利用し、山岳城を造った城址であります。周囲の土地が西に飯道寺の山脈・東は鈴鹿連峯で囲まれ、附近の村落には其の名称を残して居る・寺の省(寺庄)・そまのしょう(杣之庄)現代の農林省・其の外、地名に隠岐・相模・寺庄・の傘下で滝法師あり、附近の西南には大門の地名もあり御手洗の地名もある。
又、遠い他の国と交流をなした足跡もある。奈良の山辺布留族の祖先布留社とはこれを石上神宮と言うが、この楼門が現在の矢川神社の楼門である。この石上神宮には西暦369年・百済王から倭王(日本天皇)に献上されて今尚其の「七枝刀」がある・古代からの伝承を頭から抹殺することはできない。これを単なるつながりと見るべきではない。この葛城の豪族が勢力をのばし発展と共に国造りに成功し、後に拡大を計り政治の中心を奈良に樹立をなして本拠となす。したがって奈良には葛城山・北葛城等が存在する。又、国造りの拡大と共に各地に相模国・遠近江国・隠岐国を造りこの地名を名付けたとも言える。当葛城の天満宮の文献には相模の国と交流の事実がある。但し、早くからであるが記載年代は後の様である。
いわのひめりょう(磐姫陵)・についても葛城とつながりがある。奈良さきみなかみ(佐紀水上)池を前に、磐姫の陵は、太古さながらに静まっている。磐姫は、葛城族の出身で、仁徳天皇の皇后となった。天皇が他の女性を愛したゆえに宮に帰らず、山城の筒城の宮にかくれた。迎えにきた天皇を許さず、ついにつつき(筒城)の宮で死去。現在の田辺町ふけんじ(普賢寺)の地であった、当時の人々は、皇后が葛城族の出であることをあわれんで、葛城山の見える佐紀の丘に陵を営んだ。
記紀には、嫉妬ぶかく、天皇をさいなんだ皇后として書かれているが、万葉集には、天皇をこよなく愛した歌が四首残っている。万葉集最古の歌である。歌意は「かく恋いこがれていずに、いっそ高山の岩を枕として死にもしょう」というのである。このあたり五月には、コウホネの花が咲き、カキツバタの花が二重の堀をうずめて咲く。ほととぎすもきて鳴く。其の後奈良に於て主族は敗北なし木津を通じて今の南山城から京都の加茂に転じ京都一帯に勢力を張る。この国を葛野国と名付け、後葛野郡となる。この弟国が現在の乙訓でここを流れる川がかつらがわ(葛川)現在の桂川・斯如く変転とした主族が実は神武天皇系であったかも知れない。
然し今より五千年も前のことで当時は木の根や草の根を食糧として、人々は山のいも(葛)を最大の食糧としたのも事実である。即ち生存の糧が葛であった人類に取っては葛が最も必要とされたこととが明瞭である。我が国に始めて稲の穂が南方より渡来したのは葛の時代から三千年も後の事で、この時代を農工時代と言う。いわゆる水穂の国と言われた時代が出て来た以上前述のことは単に思い付きで記したのではなく、あらゆる大学で史学の先生より言を借りて総合判断をなし、葛城と言うこの地がクローズアップするので、それを後世に伝承し史跡をすなをに見ようとする一人であり、ここに之れを建てる。